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あなたに綴る。とあるブログの黙示録

 

東洋の黒い風、パリコレクションデザイナー山本耀司の生き様!

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山本耀司- Yohji Yamamoto

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「Youtubeで昔私が通っていたファッション専門学校のコレクション動画があったから一緒に見よう」彼女とそんなたわいもない話をし動画を視聴して楽しんでいた

そのコレクションのさなか私はひとつの気になる物を見つけた

右の関連動画に表示されていた山本耀司のインタビュー動画である

山本耀司と聞いてピンと来るのは80年代のファッションを謳歌した人間かもしくはファッションに関心のある人達位じゃないだろうか

でもこの人は本当にすごいんだ、私は心から尊敬しているしファッションの道を一度志した身としては敬愛の念すら覚える

山本耀司と80年代ファッション

山本耀司は80年代を象徴するファッションデザイナーだろう

元々慶応義塾大学法学部に通う学生は卒業後文化服装学院に再入学、1969年の卒業の年に装園賞と遠藤賞をダブル受賞、1972年にY'sを設立し1977年東京コレクションへ、その後1981年にパリコレクションデビューを果たす

彼は黒を基調としたデザインと立体的で繊細な布使いを駆使してスターダムを駆け上がった

黒はヨーロッパは元より全世界的に見ても喪服を象徴的に表す

日本人はフランス人に比べて色彩感覚が弱いとファッションの世界では言われているがこれは確かな事だ、私はクリスチャンディオールのフランス人デザイナーにデザインを教えて貰っていたのだが彼が男色だったのは関係あるのかわからないが普段着る服も春の風を感じる様な爽やかな色使いだったし、結構おおらかな性格で思考に広がりがある感性を持っていた、そういう国民性だからこそ華やかな色使いやボリュームの取り方が出来る。(フランスのデザイナーはフレアースカートのフレアー分を適当に振り分けるが日本で販売する/ライセンス契約して販売する場合には日本では均一に分量を振り分けるなどまあ性格だろうなと)

反対に日本人は生真面目な部分があるからこそ細かいディテールにこだわる、そして縫製や加工の技術、平面製図での技術では圧倒的に本場より上だ

そんな中で日本人がパリコレでこれまで成功と言う成功を持ち帰る事が無かったのに、なぜ彼が成功するに至ったのか、それはとても興味深い事柄だ

三宅一生と川久保玲

彼の話をする際に必ず頭に浮かぶのは三宅一生と川久保玲だ

三宅一生は自分自身の名を冠したISSEY MIYAKE、川久保玲はコムデギャルソンの代表兼デザイナー、コムデギャルソン、この二人も80年代の同時期に図らずもヨウジと共にパリコレクションにデビューをする事となる

日本人の誰も足を踏み入れる事が出来なかった異国の地で新しい風が吹いたのがこの時代を作り出す大きな原動力となっているのではないだろうか

イッセイさんはプリーツプリーツ、川久保さんもまたヨウジと同じくその頃に黒を使ったデザインで大きな注目を浴びる事となる、後に呼ばれる「黒の衝撃」 を引き連れてパリコレクションへ足を踏み込んだ

三宅一生

高校卒業後、上京し多摩美術大学図案科に入学。在学中から装苑賞の第10回(1961年)、第11回(1962年)と2年連続で現在の佳作にあたる賞を受賞、頭角を現した。第1回コレクションは1963年に発表した「布と石の詩」。

しかしファッションを独立したデザイン分野と認知しない当時の環境に苛立ちパリに渡り、パリ洋裁組合学校「サンディカ」で学ぶ。1966年にギ・ラロッシュのアシスタントとなり、その後ジバンシィでデシナトゥール(完成した服を絵にする仕事)になる。パリモードがオートクチュールからプレタポルテに移行する時代、実用的な衣服をデザインすることで、人の在り方を表現するプレタポルテの若手デザイナーたちは大きなショックを受けた。

1973年、「イッセイ・ミヤケ秋冬コレクション」でパリ・コレクションに初参加。衣服の原点である「一枚の布」で身体を包み、“西洋”でも“東洋”でもない衣服の本質と機能を問う“世界服”を創造。布と身体のコラボレーションというべきスタイルの確立は、1978年発表の「Issey Miyake East Meets West」で集大成された。コンパクトに収納できて着る人の体型を選ばず、皺を気にせず気持ちよく身体にフィットする1993年に発表された代表作「プリーツ・プリーズ」はこれらの延長線上にある。

出典: 三宅一生 - Wikipedia 

川久保玲

1981年、パリコレクション初参加。体の線を意識し女性性を謳歌するような西洋のデザインとは全く異なる、川久保の直線的でノンセクシャルな初パリ・コレクションは、ボロ布のようだ、ヒロシマ・シックなどと揶揄されたが、そのアバンギャルドな服作りは、パリのファッション界に大きな衝撃を与えた。

1982年、パリコレで伝説の黒服を発表。パリ・オートクチュールを頂点とする世界のモード界を震撼させた川久保の「黒服、穴あきニット(Hole Sweater)」は「黒の衝撃」と呼称された。世界中のファッション・ジャーナリストが賛否両論書きたて、「西洋の服への冒涜!」とする否定派と「新しい女性の生き方」「新しい美しさの提案」とする賛成派で、国際世論は真っ二つに割れた。

出典: 川久保玲 - Wikipedia

(プチ話1)

ちなみにイッセイさんは現場を歩いて良く回っているので渋谷や新宿の店舗を当時市場リサーチしているとよくイッセイさんがひょこっと顔を出すのを見る事が出来る

デザイナーズブランド

Yohji Yamamoto、ISSEY MIYAKE、コムデギャルソンはデザイナーズブランドと呼ばれファッションデザイナーを目指す学生は私が学生の当時は必ず受けるかどうか頭にはあるブランドなのだが上記の様にイッセイさんは布、素材を起点にはじめ、川久保さんは元々ファッションとは違う経歴から来ている、スタイリストの経験もあるので色や見せ方、メッセージ性の強さが見て取れる

そう考えた時にヨウジのあのえも言わぬ美しさは何から来ていたのか

デザインを見れば見る程、知れば知る程彼の事を知りたくなるのは必然だった

山本耀司のインタビュービデオ

彼にはインタビューを残した伝記の様なビデオが存在する

本はいくつかあるのだがビデオは確かひとつ位しかなかった気がする

実は私はその事を知った日にどうしても彼の事が見たくて、デザインに行き詰まっていたのもあったからだろう渋谷行きの電車に飛び乗り夜の街へ

渋谷のTSUTAYAをあのビルの上から下までどこかに無いかと探しまわったものだ

でもその時には探して探して探したけれど無くってamazonで売っていたのが恐らく唯一の販売経路だったのを覚えている

そのDVDに引き込まれ彼の事をより深く知って行った

「都市とモードのビデオノート」

これこれ、このいい感じの名前

懐かしい、この中になぜ彼が”黒にこだわるのか”なぜ”彼がデザイナーとして大成したのか”が映されている、ちなみにこのインタビュアーは外国の方で外国の記者がどの様に彼の服を見ていたのか、彼の仕事に対する取り組みが映されている

Amazon.co.jp | 都市とモードのビデオノート デジタルニューマスター版 [DVD] DVD・ブルーレイ - 山本耀司, ヴィム・ヴェンダース

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山本耀司のデザイン

彼のデザインは色は黒か白がほとんど、それ故に服の構造やドレープ、記事の特性を生かした職人的な仕立て、そして何より日本ではCADなどで引く平面製図が一般的だが彼はモデルに着せながらその場でハサミを断つ立体裁断がその服の本来ある姿をまるで彫刻の様に作り出している

都市とモードのビデオノートを見た後のデザインは彼の1枚の布で作り出す試みを私も取り入れた作品を学校の課題として提出した

レベルや技術とは違った意味で、今考えれば少し笑ってしまう部分もあるが自分の感性を信じてハサミを布に入れたのは本当の意味ではじめてだった気がする

それほどまでに”自由に服を作る”というのは難しい事なのかもしれない

山本耀司のYOUTUBE動画

youtubeの動画では彼の過去のテレビのインタビューが映っていた、そこにはデザイナーでありアーティストであり、空手家、1回のコレクションの為に900着の洋服を作り

フランスのコレクション会場で90着までその場で削ぎ落とす

その過程で90着に合わないモデルすらも削ぎ落とされて行く

ひさしぶりに見たこの動画に私の胸はどうしようもなく得難い熱い鼓動を感じた

もしこの記事に辿り着いた人がいたのならぜひ30分彼の動画を見てみる事をおすすめしたい

ちなみにコレクションに際し900着作ったと言ったが普通に考えてどう考えても1着1週間はデザインから立体裁断、パターン作成 、トワル組、生地決め、縫製でかかる

それをそのコレクションの為に切り捨てるという事のすごさを伝える表現力がせめてあればと筆者は思った

山本耀司/Yohji Yamamoto 1/3 - YouTube

 

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